(大正元)年には味噌の醸造も開始する。醸造の知識が少ない中での醤油づくりは困難を極めたが、2代目が大阪の大学で醸造学を学び、最先端の醸造設備を取り入れた赤レンガ工場を苗穂に開設し、事業は軌道に乗っていく。その後、時代の変化に合わせながら新たな商品を開発してきたが、中でも創業100周年の1991(平成3)年に発売した「トモエ日高昆布しょうゆ」はロングセラーとして定着している。「昆布だしの旨みがある分、塩分を抑えることができることから、塩分カット商品を出したところ、健康志向とマッチし人気に火が付きました」。大手メーカーもその市場性に着目して昆布醤油マーケットに参入したことで、今や昆布醤油は北海道の食文化として定着するまでになった。大手が原料に昆布だしのエキスを使っているのに対し、福山醸造では昆布を釜茹でしてだしを取る製法にこだわっており、旨みの豊かさが他社との差別化につながっている。魚介類から野菜まで豊かな食の素材に恵まれる北海道。素材本来のおいしさを損なわないように同社が30年余りにわたって開発に注力してきたのが丸大豆を原料に使った醤油だ。通常の醤油は、短期間で製造できるよう油脂分をカットした大豆を使う。丸大豆は油脂分を含むため製造工程で酸化を抑える難しさがあるが、これをじっくり発酵させることで味わいにまろやかさが加わる。「北海道の人は味に角が立つ調味料は素材の味を邪魔するので嫌います。その点、丸大豆醤油は素材本来の味を生かす役割を果たします」。その延長線上で商品化したのが2015年に発売した「道民の醤油」だ。「道民の醤油」では北海道産丸大豆の中でも旨み成分の含有量が多いものを使用した。当初は「北海道丸大豆しょうゆ特選」という名前を考えていたが、地場メーカーとしての矜持を示すべく「道民の醤油」というネーミングにした。「社内では“北海道”という言葉を入れたいという声が強く、そのこだわりから賛同者はいませんでした。しかし、地場メーカーとして道内の人に訴求したいとの思いから押し切りました」。企画開発から携わった福山氏の強い思いで実現したネーミングだ。発売から商品に成長している。2020(令和2)年からは、「美容と健康」をテーマに糀の新たな可能性を追求し、創業時の社名を使った「ヤマト福山商店」というブランドを立ち上げた。「廻船問屋として商いをしてきた先人たちの確かな目利き力、さらには未開の札幌で事業を始めたフロンティアスピリッツを後世に伝えていきたいという思いをブランド名に込めました」と福山氏。糀パウダーや珈琲糀、プリンなどのスイーツ、美容用品まで女性社員を中心とした開発チームが新しい視点で商品を生み出している。130年余りにわたって醸造業に携わってきた福山醸造。「醸造は菌という生き物に頼っているため、わずかな条件の変化で品質ががらっと変わってしまいます。それだけに手を掛けざるを得ず、丁寧さに勝る仕事はないと痛感しています。技術が進化しても、時代が移り変わっても、商品作りに向き合う姿勢を大切にしながら、発酵文化の価値を広め、次世代につなげていくこと、北海道の食とともに生きることを軸に事業展開していきたい」と語る福山氏。その言葉の端々に開拓者精神を受け継ぐ地場メーカーとしての心意気を感じた。札幌駅から函館本線で東にひと駅目の苗穂駅近くに福山醸造の本社はある。奥へ歩みを進めると、1918(大正7)年に建てられた4棟の赤レンガ工場が威風を漂わせていた。「レンガは断熱性、蓄熱性が高く、北海道の寒冷な気候の中で安定的に醤油・味噌づくりをするうえで欠かせない素材でした」と、創業者から数えて5代目に当たる専務取締役マーケティング本部長の福山誠司氏は往時に思いを馳せながら語る。今なお現役の醬油工場として稼働しており、歴史を大切にする同社の姿勢が伝わってくる。福山家はもともと福井で廻船問屋を営んでおり、北前船で日本全国を巡り各地の産物を商ううちに、北海道の豊かな食に着目。7人兄弟の長男だった福山甚三郎は親族一同を引き連れて札幌に移住する決断を下す。とはいえ、北海道の中でも先に開拓が進んでいた函館、小樽に比べ、札幌は未開の状態で人口も2万人ほどしかなかった頃のことだ。「先んじて弟が札幌で事業をなしており、札幌がこれから発展し、中でも醤油醸造業に可能性があると兄の甚三郎に伝えていたようです」。1891(明治24)年、甚三郎は現在の札幌駅近くで「ヤマト福山商店」として醤油醸造業を始めた。1912ネーミングにこだわった「道民の醤油」福井から一族を引き連れ北海道へ発酵文化の価値を広め次世代につなげる10年経った現在は、会社の柱となる国際規格「FSSC22000」を取得するなど安心安全な商品を永続的に提供できる仕組みを実現している今も現役で稼働する赤レンガ工場31
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