「〜みたいな音楽」ではなく「まだない音楽」を作るひとつの出会いから新しい出会いの輪が広がった5 ―武部さんが音楽の道を歩み始めたきっかけは何でしたか。3歳からピアノを習い、兄の影響でギターを手にしたのが8歳の時。中高一貫校に進学して、中学2年からバンドを組んでロックにどっぷりとハマっていきました。高3になって大学進学を考えた時も、音楽の道へ進みたいと国立音楽大学を選び、入学後もアマチュアバンドを続けていました。その頃、荒井由実(後に松任谷由実=ユーミン)の曲を聴いて日本の新しい音楽の息吹を感じ、スティービー・ワンダーを聴いて涙を流し、こんな音楽を作りたいと考えたのが音楽家を目指す第一歩でした。あのタイミングでユーミンとスティービー・ワンダーに出会わなかったら、この職業に就いていなかったかもしれません。―その後、ユーミンのコンサートの音楽監督を務めるようになりました。その経緯を教えてください。大学時代にアマチュアバンドの練習―ご著書『ユーミンの歌声はなぜ心を揺さぶるのか』で、共演した歌い手は2〜3千人と書かれています。これほど多くのミュージシャンと信頼関係を築いてこられた秘訣は何でしょうか。編曲家として最初に成功したのが斉藤由貴の『卒業』という曲で、その時、松本隆さん、筒美京平さんという日本トップの作詞・作曲家と仕事をして、それがご縁で、お二人から仕事をいただくようになりました。薬師丸ひろ子や小泉今日子などの編曲を任され、それがヒットすると、また仕事の依頼が来るようになり、80年代後半には年間250曲くらいの編曲をキーボーをしていたスタジオで、かまやつひろしさんと知り合い、一緒にセッションをするようになり、その後、かまやつさんのバンドでキーボーディストが必要になったので参加することができました。そのご縁で出会いの輪が次々と広がり、久保田早紀、寺尾聰、清水健太郎、由紀さおりなどのバックバンドを経験していきました。そのうちに僕らが伴奏すると、その曲がヒットするという不思議なジンクスが広まって、『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』などの音楽番組で演奏するようになりました。ユーミンとの出会いもかまやつさんの紹介でした。1980年のコンサートツアー『BROWNʼS HOTEL』でディストとして初めて参加し、一緒に全国を回ったのをきっかけに、83年のコンサートツアー『REINCARNATION』では音楽監督を任されるようになりました。それ以降、現在に至るまで40年間、ユーミンのすべてのコンサートで音楽監督を務めています。していました。でもそうなると、今日は松田聖子、明日は中森明菜、あさっては斉藤由貴というようなスケジュールで曲を作っていて、売れる曲をアレンジすることしか頭になく、どこか無責任な感じがしてきたんです。もっと責任ある立場でじっくり地に足を着けて、時間をかけて一人ひとりのアーティストと向き合いたいと考えるようになりました。編曲家からプロデューサーになりたいと意識し始めたのが90年代の初め頃でした。―音楽プロデューサーになって、大切にしている信条はありますか。ずっと変わらずに思っていることは、そのアーティストの「血にある」ことをやろうということです。無理矢理これをやりなさいということはしたくない。その人がどんな生い立ちか、どういう音楽を聴いてきたか、どんな挫折を味わい、どんなトラウマがあるのか。そういうこ
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