はちまんづくりはちまんづくりお お が の も り めお お が の も り めい わ し み ずい わ し み ずじょうぐうじょうぐうじんぐうこうごうじんぐうこうごうね ぎね ぎげ ぐ うげ ぐ うこしこしの乗った紫色の輿輿はいぶつきしゃくはいぶつきしゃくに ん も ん ぼ さ つに ん も ん ぼ さ つ下宮境内に生える兆竹(さましだけ)。若宮神社で焼いて占った亀甲は、この竹を用いて冷ましたとされる。※1 神が人に乗り移ったり夢に現れたりして意思を告げること。 ※2 仏教を排斥し、寺などを壊すこと。明治維新の神仏分離によって起こった仏教に対する破壊運動。写真上:南中楼門(勅使門)。朱の漆塗りがまばゆい。この奥に本殿が鎮座する。写真下:御神木の大クスノキ。推定樹齢800年で、木に触れて願うと御利益があるとされる。弥勒寺跡。かつては宇佐神宮境内に広大な敷地を持っていた。上宮に向かう階段途中にある「夫婦岩」。三角の石が左右対称かつ寄り添うように敷かれている。カップルは手をつないで左右の石を踏むと幸せになれ、独身の人は両足で左右の石を踏むと良縁が訪れるとされている。古来、国家の神とされた上宮に対し、下宮は民衆の神として国民より篤い崇敬を集めてきた。その後も国難のたびに国家と朝廷を守ってきた八幡大神。上宮から下宮に至る参道に立つ若宮神社は、託宣の際の亀の甲その後も国難のたびに国家と朝廷を守ってきた八幡大神。上宮から下宮に至る参道に立つ若宮神社は、託宣の際の亀の甲羅を焼いて水を掛けた時の割れ目を見て吉凶を占っていた場所で、境内から亀甲が多く発掘されています。「わざわざ奈良の羅を焼いて水を掛けた時の割れ目を見て吉凶を占っていた場所で、境内から亀甲が多く発掘されています。「わざわざ奈良の都から片道1か月ほどをかけて何度も使いを派遣して伺いを立てるほど朝廷に頼りにされたのです」。都から片道1か月ほどをかけて何度も使いを派遣して伺いを立てるほど朝廷に頼りにされたのです」。に勧請したことに始まります。こうした歴史的背景のもと全国に数多くの八幡神社が建造され、八幡神は地域の守護神としに勧請したことに始まります。こうした歴史的背景のもと全国に数多くの八幡神社が建造され、八幡神は地域の守護神として深い信仰を集めています。「八幡様はお告げ(託宣)を多くされる神様。迷われた時、悩まれている時にここで手を合わせてて深い信仰を集めています。「八幡様はお告げ(託宣)を多くされる神様。迷われた時、悩まれている時にここで手を合わせていただければ、力を与えてくださると思います」。いただければ、力を与えてくださると思います」。国宝「宇佐神宮本殿」が鎮座する上上国宝「宇佐神宮本殿」が鎮座する八幡大神が祀られる一之御殿で、二之御殿には当地で崇拝されてきた八幡大神が祀られる一之御殿で、二之御殿には当地で崇拝されてきたひ め お お か みひ め お お か み比比売大神売大神、三之御殿には応神天皇の母・、三之御殿には応神天皇の母・神神宇佐神宮では「二拝(礼)、四拍手、一拝(礼)」で参拝します。「明治期に宇佐神宮では「二拝(礼)、四拍手、一拝(礼)」で参拝します。「明治期に全国の神社で二拝(礼)、二拍手、一拝(礼)に統一されましたが、宇佐神全国の神社で二拝(礼)、二拍手、一拝(礼)に統一されましたが、宇佐神宮では従来から行われていた四拍手が残りました。感動した時に人は自然宮では従来から行われていた四拍手が残りました。感動した時に人は自然と拍手をするように、参拝される方がその尊さに感激してお参りされていると拍手をするように、参拝される方がその尊さに感激してお参りされていることの証ではないでしょうか」と禰禰ことの証ではないでしょうか」と本殿はひときわ濃い赤の漆塗りがほどこされその高貴さを表しています。建本殿はひときわ濃い赤の漆塗りがほどこされその高貴さを表しています。建築様式は八八築様式はから見ると屋根が M 字型を成しています。「八幡大神は、昼間は前殿の御から見ると屋根が M 字型を成しています。「八幡大神は、昼間は前殿の御座所でお仕事をされ、夜には奥殿でお休みになり、毎日往復されています。座所でお仕事をされ、夜には奥殿でお休みになり、毎日往復されています。多くの人に頼られる八幡大神はしっかり休息を取られ毎朝気分も新たに参多くの人に頼られる八幡大神はしっかり休息を取られ毎朝気分も新たに参拝者と向き合っておられるのでしょう」。拝者と向き合っておられるのでしょう」。上宮を参拝し終えたら下下上宮を参拝し終えたら「庶民にとって上宮に参るのは畏れ多いと「庶民にとって上宮に参るのは畏れ多いということから、平安時代に入ってすぐ八幡いうことから、平安時代に入ってすぐ八幡様が下宮をつくるようにと託宣※1※1されました」されました」様が下宮をつくるようにと託宣と高橋さん。宇佐神宮では上宮と下宮のと高橋さん。宇佐神宮では上宮と下宮の両方を参拝するのが基本とされ、上下宮で両方を参拝するのが基本とされ、上下宮で各御殿に3回ずつ計6回お参りすることにな各御殿に3回ずつ計6回お参りすることになります。ります。「八幡様は非常に多くの託宣をされたことでも知られています」。東大寺の大仏建立「八幡様は非常に多くの託宣をされたことでも知られています」。東大寺の大仏建立に必要な金箔が不足すると「(国内に)必ず金が出る」と予言。その功を称えられ、大に必要な金箔が不足すると「(国内に)必ず金が出る」と予言。その功を称えられ、大仏の落慶法要で八幡大神は賓客としてもてなされ、東大寺入りの際には、禰宜であ仏の落慶法要で八幡大神は賓客としてもてなされ、東大寺入りの際には、禰宜であ神杜女神杜女の乗った紫色のるる大大神輿です。神輿です。宇佐神宮は「神仏習合文化の発祥」ともいわれています。738年建立の宇宇佐神宮は「神仏習合文化の発祥」ともいわれています。738年建立の宇仏毀釈仏毀釈※2※2まで同一境内で祀られてきました。「こまで同一境内で祀られてきました。「こ佐宮弥勒寺は明治時代の廃廃佐宮弥勒寺は明治時代ののあたりは大陸とも近く仏教文化も早くから根付いていました。神道も仏のあたりは大陸とも近く仏教文化も早くから根付いていました。神道も仏教も多神教という前提があり、お互いの文化を認め合う中で自然と融合し教も多神教という前提があり、お互いの文化を認め合う中で自然と融合していったと考えられます」。国東半島に散在する「六郷満山」と称する天台ていったと考えられます」。国東半島に散在する「六郷満山」と称する天台宗寺院群は、八幡神の化身である「仁仁宗寺院群は、八幡神の化身である「も宇佐神宮神職と六郷満山僧侶との合同の祭典が営まれています。も宇佐神宮神職と六郷満山僧侶との合同の祭典が営まれています。京都の京都の石石かんじょうかんじょうてて勧勧したもので、鎌倉の鶴岡八幡宮は、源頼義が前九年合戦の戦勝を請請したもので、鎌倉の鶴岡八幡宮は、源頼義が前九年合戦の戦勝をゆ い ご う つ る が お かゆ い ご う つ る が お か比郷鶴岡比郷鶴岡石清水八幡宮に祈願して叶えられたことに感謝し、その神霊を由由石清水八幡宮に祈願して叶えられたことに感謝し、その神霊をには、正面に向かって一番左側が宮宮には、正面に向かって一番左側がの高橋喜弘さん。宜宜の高橋喜弘さん。と呼ばれ,前殿と奥殿の二棟の建物がつながっており、横幡造幡造と呼ばれ,前殿と奥殿の二棟の建物がつながっており、横に向かいます。宮宮に向かいます。が使われました。これが文献で確認できる日本最古のが使われました。これが文献で確認できる日本最古の八幡宮は、奈良・大安寺の行教が宇佐神宮のお告げを受け清水清水八幡宮は、奈良・大安寺の行教が宇佐神宮のお告げを受けが祀られています。功皇后功皇后が祀られています。」が開基と伝えられ、現在で聞菩薩聞菩薩」が開基と伝えられ、現在でスポット2「「宇宇佐佐神神宮宮本本殿殿」」スポット3スポット4祀祀らられれてていいるる国国宝宝三三柱柱のの神神様様がが上上宮宮ののああととはは下下宮宮へへ参参るるののががななららわわしし名名残残、、弥弥勒勒寺寺跡跡神神仏仏習習合合文文化化発発祥祥のの27
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