幼い頃から本能的に人間よりも動物を好んでいました。「生き物と一生関わっていたい」と獣医を目指すようになったのですが、15歳で経験した阪神・淡路大震災がその後の人生を大きく変えました。深い喪失感を埋めるように、動物を絵で描くようになり、さらに形として残したいと立体造形へと関心が向くようになったのです。大震災で自分がいつ死ぬかわからないと考えるようになり、自分の魂が欲するものに従って生きるようになりました。何年浪人してでも行くのが自分の使命だとさえ思い、3浪して美大の彫刻科に入学しました。彫刻科でさまざまな素材を扱う中で、環境への配慮や素材の持つ生命感から木に魅力を感じるようになりました。「朝練」と呼ぶ習慣がこの頃から始まりました。朝5時に起きて、大学構内に住み着いていたネコを描いたり、自分の手や友人の顔を描いたり。この習慣は今も続いています。対象も描き方も毎日のように変え、過去の経験に頼ることを避けています。過去を踏襲するのは焼き増しにしか過ぎません。人間の細胞は日々生まれ変わっているので、常に感覚や感性を新しく保ち、風通しを良くしておくことが自分自身を生かすことにつながると思っています。「朝練」は今も続いており、生まれて初めて絵を描いた時のワクワクを毎朝体験しているという感覚を味わい、脳や心を整える時間にもなっています。大学在学中、私の作品を見た教授から「うちのイヌも彫ってほしい」と言われたことがきっかけで、対価を得て作品をつくるようになりました。手がけた作品が次の依頼者を呼び、それが今に至るまで絶え間なく続いています。ユニークな依頼もありました。30歳の頃、ブログのコメントを通じてアラブ首長国連邦の王族関係者から「うちで飼っている野生のガゼルを彫りに来てほしい」との依頼が舞い込んだのです。現地に出向き、たくさん飼っているガゼルの中の1頭を指定されたのですが、ペットのイヌやネコと違って個体差の判別がとても難しかったです。でも、1頭ずつ個体を見分けていくと、それぞれに魂からにじみ出てくる意思を持っているのがわかってくるんです。ガゼルを彫った経験を通して、より深いところで動物と向き合えるようになりました。動物は人間と違って本能で動いているからこそ違いが面白い。虫でさえもです。そう考えると虫に比べて哺乳類は楽勝ですね。制作する際にまずは30分ほどで動物をスケッチしますが、それは頭の中にパーソナリティをインプットするためのものであって、彫り始めてからスケッチを見返すことはありません。次に素材の丸太をチェーンソーで粗削りし、その後は丸ノミなどは使わず平ノミだけで削っていきます。順序は特に決めず、対象となる個体の宿る意思をイメージしながら彫っていきます。彫るうちに木が割れることもありますが、それも素材からのメッセージと受け止めています。人間の思い通りにしようとするのではなく、木そのものの声に耳を傾けることで、最高の形ができるのだと思っています。かつては人付き合いが苦手で精神的にストレスを抱えた時期もありましたが、今ではそれも乗り越えました。生命という大きな視点で見ると、人間も動物であり、区別する必要はないと気づいたんです。欠点や濁った部分も含めて人は美しい存在であり、憎しみさえも面白いと感じられるようになりました。人間は醜を含んでこそ美しいもの。赤ちゃんだと思えば悪いところもかわいいでしょう?そう考えられるようになってからずいぶん生きやすくなりました。近頃は、不思議なことに動物の死体が目の前に現れ、まるで「彫ってほしい」と訴えかけているかのような体験も増え、導かれるように制作に取り組んでいます。また、現在は空想の生き物である龍の制作とも向き合っています。これまでたくさんの動物たちから受け取ってため込んできた魂の元気玉を私から分け与えているような感じでしょうか。インプットをし続けてきたからこそのご褒美のような感覚ですね。制作の合間にギターを演奏したり、曲をつくったり、愛犬の月くんとの散歩や料理、読書などの時間も大切にしています。15歳の時から、与えられたことに向き合い、自然の摂理に逆らうことなく生きてきました。これからも魂の赴くままに制作活動を続けていきたいと思います。「朝練」それぞれの個体からにじみ出てくる魂を感じる醜い部分も含めて人は美しい存在と思えるように瞬間の表情から意思を感じ取り、作品に仕上げていく大小さまざまな平ノミを使って作品を仕上げる2718歳の時から今も続く
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