Plusone632
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公益財団法人日本ラグビーフットボール協会顧問・会長特別補佐、元副会長、専務理事元ラグビーW杯日本招致委員会委員長トップリーグ創設とW杯招致に尽力真下昇氏高校入学と同時にラグビーを始められたそうですが、そのきっかけは何でしたか?中学まで野球をやっていたので、高崎高に入学した時も野球部の門を叩こうと思っていたら、ラグビー部に入っていた中学時代の先輩につかまり、そのまま部室へ連れて行かれて入部させられました。ほとんど拉致されたようなものです(笑)。ラグビー部は部員の数があまりいない少数精鋭のチームで、2年生の時に国体優勝、全国大会ベスト4入りを成し遂げました。もちろん練習はきつかったけど、努力すれば結果がついてくることを教えられました。3年生の時は受験前の1月から東京教育大学を目指して入試8科目を猛勉強。夜も寝ずに頑張ったお陰で何とか国体優勝、全国大会ベスト4の高校時代    合格を勝ち取ることができました。大学時代も就職後もラグビーを続けてこられて、引退後はレフェリー、そして協会理事と歴任されましたね。大学時代はケガに泣かされてあまり活躍できませんでした。その後、外資系の商社に就職し、社会人リーグで31歳まで現役を続け、引退後はレフェリーのライセンスを取りました。ライセンスにはA~Dの段階があって、私は40代でAの中でも大切な試合を任される「トップレフェリー」として国際試合や大学選手権などでホイッスルを吹きました。そしての理事に就任。弱かった日本ラグビーの改革を進めたいと考えるようになったのです。日本のラグビーを強くするためにどんな戦術を考えたのですか?1999年、ウェールズで開かれたW杯でラグビーこそ我が人生高崎高校ラグビー部に入部した日から、「ラグビーは自分の人生そのものになった」と語る真下氏は、プレイヤー、トップレフェリーを経て、日本ラグビーフットボール協会の専務理事として、アジアで初めてのワールドカップ(W杯)開催の立役者となって貢献。こうした長年にわたる功績により、2022年秋の叙勲で旭日小綬章を授与された。その原点は高崎高ラグビーの「プラスワン」の精神。毎日、心技体に何かを1つずつ積み重ねてきたというラグビー人生を振り返ってもらった。15日まで試合に出場していたため、その翌日54歳でレフェリーを引退後、日本ラグビー協会32

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