Plusone628
33/36

人気絶頂の中で電撃引退、総合格闘技を始める社会貢献もタイガーマスクの使命した。でも、イギリスでタイトル戦の予定も決まっていたので何度も断ったのですが、「もうポスターもできている。猪木の顔を潰すな」と言われ、仕方なく1回だけ出場ということで帰国したのです。そんなバタバタだったので、マスクとマントはシーツにマジックで描いた急ごしらえのもの。会場に入ると観客から悪口や野次も聞こえてきて、本当に恥ずかしかったです。今でもタイガーマスクのデビュー戦は「伝説の一戦」として語り継がれていますが、どんな想いで闘っていましたか?対戦相手はダイナマイト・キッドという実力派レスラーで、パワーもスピードもものすごい。もう必死で闘い、日本では見せたことのない空中技やソバット(回転後ろ蹴り)などを次々に披露して、最後は必殺技のジャーマン・スープレックスでフォール勝ちできました。でも、こんな時イギリスなら総立ちで拍手と歓声が沸き起こるのに、日本の観客は静かにしているのです。「ウケなかった。もうイギリスに帰ろう」と引き上げようとしたところ、たくさんの記者に取り囲まれて「すごい!すごい!」と言われ、その時初めて、「なんだ、ウケていたんだ」と知りました。デビュー以降、華麗な「四次元プロレス」で空前のタイガーマスクブームをつくり、テレビ視聴率25%超えの超人気レスラーとなったのに、わずか2年4ヵ月で電撃引退。その理由は何でしたか?実は、佐山サトルでデビューして間もない18歳の頃、猪木さんから「新日で総合格闘技(マーシャルアーツ)部門を作り、お前を第1号選手にする」と言われ、タイガーマスクになってからも、格闘家になるための練習はずっと続けていました。プロレスラーとして人気絶頂の時もその言葉が頭から離れず、自分が理想とする格闘技を始めたいという想いが日に日に大きくなり引退を決めたのです。引退後「シューティング(現・修斗)」を創設して、若手格闘家の育成を始めましたね。上げました。キックボクシングなどの打撃技と、柔道などの投げ技・寝技・関節技を使えるので、たくさんの可能性を秘めており、現在ブームの総合格闘技の源流になったと思っています。初めは僕一人で理念やルール、技術、選手の育て方など全国をまわって教えていました。でも、最初から選手が育つわけはないと考え、僕が教えた子たちがいずれ先生になり次の子に教えていくことで徐々に普及していくという将来像を描いて、20~30年後に花咲けばよいと思っていました。それが叶って、今では日本だけでなく世界各国でプロの大会が開かれるなど、あの時の想いが実を結ぶことができてうれしいです。名誉顧問を務める「初代タイガーマスク後援会」は、子どもたちへの支援や警察活動への協力などの社会貢献を行っています。どのような想いで取り組んでいるのでしょうか?後援会は新日本プロレス元専務で、私を新日に入門させてくれた新間寿さんが設立した団体で、児童養護施設の子どもたちにランドセルをプレゼントしたり、暴力団追放、詐欺やいじめ撲滅などのキャンペーンに協力したりしています。漫画のタイガーマスク・伊達直人は自分        が育った孤児院に寄付をしていたので、そうした子どもたちを支援するのは僕の使命だと思っているし、タイガーマスクは正義の味方のイメージが浸透しているので、警察活動のお役に立てればうれしいです。最後にティグレ会員の皆さまにメッセージをお願いできますか。毎日仕事をしていると、ストレスがたまリます。それを晴らすには、リラックスする時間と集中する時間を分けることが大切。集中力はリラックスから生まれます。僕もそうして新日時代の厳しい練習を乗り越えてきたし、あの集中力がなかったら僕はタイガーマスクになれなかったと思います。皆さんもぜひ試してみてください。84年に総合格闘技の団体「修斗」を立ち33現役時代の初代タイガーマスク初代タイガーマスク 佐山 サトル1957年山口県生まれ。高1でアマチュアレスリング県大会優勝。75年新日本プロレス入門。76年本名でリングデビュー後、メキシコ・イギリスで修行。81年帰国し、謎の覆面レスラー・タイガーマスクとして鮮烈デビュー、絶大な人気を集めるも83年に一時引退。84年現役復帰し、総合格闘技「シューティング(現・修斗)」を設立。現在も格闘技と武道の精神を後進に教え続ける。今年7月、東京・神田明神にて「佐山武道~初代タイガーマスクの武道精神と日本文化展」を開催予定。

元のページ  ../index.html#33

このブックを見る