Plus One No.626
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―人生で初めての体操のない生活はどうでしたか?それまでは夢や目標があったけど、ただ遊んでいることが全然楽しくなくて。お兄ちゃんと弟は今、体育館で練習しているんだろうなと考えると、「私は一体何をしてるんだ」という気持ちが芽生え、もう一度体操をやりたいとすごく感じて、今度こそ怒られるつもりで両親に「もう一度体操をやりたい」と言ったら、「じゃあ明日から行って」と。そんな感じで言ってくれたので、私も引きずらずにすみました。―また練習の日々が始まって、うまく復帰できましたか?やっぱり思うようにできなくてモヤモ       きました。そこから、中3までやっていたヤしていて、高3になって進路で迷っていました。そんな時、弟から「そろそろ真剣にやりなよ、いつまでダラダラしてるの」と活を入れられたんです。弟がこんな気持ちでいるということは、両親はどれだけ我慢してきたのだろうと、その時気づ楽しい体操をもう一度見つけたいと、体操でいちばん強い日本体育大学で人生をやり直そうと決めました。―日体大での学生生活はいかがでしたか?―ロンドンオリンピックの1年後に引退を決めました。きっかけは何でしたか?練習をしながら、他の選手の演技が気になり始め、こうやればうまくなるのにとアドバイスしたくなりました。それは今までにない感覚で、そう思った時、選手生命は終わりだなと感じ、後進の選手を教えたいと思うようになりました。―昨年11月に、子ども向けの田中体操クラブをオープンしたのも、そうした気持ちからですね。体操を通して、人間性だったり、夢中になれる夢だったりという目標を見つけてもらいたいという思いから始めました。体操で体幹がしっかりできれば、どんなスポーツにも役立ちます。田中家では怒られた記憶がないので、この家訓をここでも実践していきたいですね。初めての寮生活で、みんなと寝食を共にしながらチームを作っていく毎日が新鮮でした。オリンピックレベルから初心者レベルまで、みんなが一緒に頑張る環境が刺激的で楽しかったです。そこで、監督に足首を手術して治すように言われて、1年生の冬に手術しました。2年生の1年間はリハビリ生活。トレーナーの先生に、「練習するだけが体操じゃない、頭でも体操ができる」と言われて、リハビリ中は本を読んだり、他の選手の研究をしたりしているうちに、無茶苦茶体操をやりたいという熱意が自然に湧き出てきました。―そこからオリンピックへ向けて再スタートし始めたわけですね。大学3年は北京オリンピックの年。自分は出場なんて意識しませんでしたが、代表選考会で個人総合8位に入れました。オリンピック代表は5人なので、あと3人抜けば行けたことに気づき、オリンピックが夢から現実に変わりました。次のロンドンオリンピックを目指して4年計画を立て、来年、半年後、1ヵ月後と、毎日の目標を立て、ゲーム感覚で計画をクリアしていきました。もちろん練習はきつく、ケガをすることもありましたが、日本代表になるための試合は全部出られたので、計画通りの4年間になりました。―そして、念願のロンドンオリンピックに出場できた時の感想はいかがでしたか?自分史上、初めて緊張した試合でした。会場で五輪マークを見て頭が真っ白になりました。平均台から始まったのですが、自分がどんな演技をしたか覚えておらず、終わってからチームメイトに「落ちてなかったよね?」と確認したほど。今まではどんな試合も冷静でいられたのに、オリンピックだけは頑張らなきゃ、失敗したくないという欲が強くて、いちばん悔しい大会になりました。もう一度やり直せるならやりたいくらいです。17田中 理恵 (たなか りえ)1987年和歌山県生まれ。6歳から体操競技を始めて小5の頃からオリンピックを目標にしていたが、中3で足をケガして挫折。日体大3年生から再びオリンピックを目指して猛練習。2012年のロンドンオリンピックでは兄・弟と3人で出場して団体8位入賞を果たす。翌年26歳で現役を引退して29歳で結婚。現在は3歳の長女を育てながら、子ども向け体操教室も運営している。2020東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事、日本体操協会理事も務める。YouTubeチャンネル「リエスタ」も好評配信中。

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